私が日本語教師になったわけ ~その1~

突然ですが、今回は「私が日本語教師になったわけ」について書きます。

『月刊日本語』で連載なさっている村上先生のブログ(→むらログ)にて、
「みんなでブログを書こう!第1回(私が日本語教師になったわけ)」
という香港のぱんちょさんの企画(→詳しくはこちらをご覧ください)を知り、私も乗っかってみました!

私の場合、昔から日本語教師に憧れてたわけではないのです。
むしろ3年前まで、「この世には、日本語教師なる仕事が存在する」ということを意識したことすらありませんでした。

日本語教師という仕事に対して多い誤解に、「日本人なら誰でも日本語教えられるんじゃないの?」とか、「日本語教師って英語出来るんでしょ?」などというものがありますが、私もそんな風に思っていた・・・というより、そういうことを考えたことすらなかったのです。

そんな私がなぜ今ウズベキスタンで日本語教師をしているのか・・・。

一言で言うなら、

「人生、不思議。」

でも、「不思議デスネ!」じゃあ「日本語教師になったわけ」の説明にならないので、もうちょっと真面目に。

簡単に説明したい時は、「青年海外協力隊に参加したかったから、日本語教師になりました」って言ってます。

それも一面だけどね。でも、それだけじゃないのです。
それに、そもそもなぜ青年海外協力隊に参加しようと思ったのか。
「わたしが日本語教師になったわけ」を説明するには、そこから始めないといけないなぁと思います。

さて、話は大学入学前まで遡ります。
高校生の時、曽野綾子さんや黒柳徹子さんの著書から影響を受けて、うすぼんやりと途上国支援に関わりたいと思うようになり、
「将来は途上国の子どもの権利を守る仕事をしたい。権利と言えば法学部。よし法学部に入ろう。」と青臭いことを考えて、法学部の国際関係法学科に進学しました。

ところが。
大学では法学部は副専攻で、「マンドリンオーケストラ学部マンドラテノール学科」で学び、(サークルのことです)、就職活動で国際協力関連の組織をいくつか受けるも、失敗。

でも、社会経験は積みたい、とりあえず社会に出なきゃ!社会に出て数年働いたら、大学院に進学して国際協力について学ぼうって、これまたぼんやりと考えていました。

そんなこんなで大学卒業後、民間企業に就職し、OLとして3年ちょっと働きました。「国際協力」とも「日本語教育」とも無縁の会社です。

働く中で日々の生活に流され、世界情勢に対しても無関心になっていくのを自分でも感じていました。

大学時代は、特別な活動はしていなかったと言っても、大学のゼミ論で『多国籍企業と人権保障』というテーマで児童労働について書いたり、WFPのお手伝いをしたり、と世界情勢に対してある一定のアンテナは持っていたように思います。

が、働いていく中で、自分の実生活とはかけ離れた「遠い世界の問題」としてグローバルイシューに対して無関心になっていくのを自分でも感じていて、国際的な仕事をしている大学の同級生に比べて、自分の世界がどんどん狭くなっていくような感覚に、怖さを覚えていました。

「無関心が一番怖い」

そんな言葉を、大学の先生(お名前を失念してしまいました・・・)から伺ったことがあります。その言葉が頭の片隅にひっかかっていました。

(私の人生これでいいのかなー)ってぼんやりと考えつつも、特段何もせず、OL生活がもうすぐ4年目に入るっていう時に、上司から異動が言い渡されました。

(これは国際協力の青臭い夢を叶えるチャンス!)と思い、「私、ペルーに行くので会社をやめます。」と言って、退職しました。

ここでどうして「ペルー」なのか。国際協力に係わる仕事をしたかったものの、私には専門性も経験もない。海外留学も考えたけれども、明確な目標がない。どうしたものか、と思っていたところで「青年海外協力隊」の広告を電車で見かけて、「これだ!」と。

ところが、やはり専門性も何もなかったので、その時応募出来たのは「青少年活動」という職種ぐらいでした。で、その青少年活動の要請の中に、ペルーの孤児院で活動する、というものがあったのです。それに応募しました。

まだ受かってもいなかったのに、春募集に応募しただけなのに、会社を辞めるなんて、強気だったなぁと今でも思います。

でも、あの異動がなかったら、もしかしたら、まだあの会社にいたのかも・・・。
何がきっかけになるのか、人生わからないものですねー。

長くなったので今回はここで切ります。

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